深谷教会聖霊降臨節第3主日礼拝2024年6月2日
司会:西岡義治兄
聖書:ローマ人への手紙10章5~17節
説教:「言葉は口と心に」
佐藤嘉哉牧師
讃美歌:21ー69
奏楽:杉田裕恵姉
説教題:「言葉は口と心に」 ローマ人への手紙10:5~17
祈りはわたしたちキリスト教信者にとって、とても大切なものです。うれしいことがあった時、悲しいことがあった時、不安で心が騒ぐ時に祈ると、わたしたちの心は喜びに満たされ、また慰められ、神の支えを感じます。わたしは13歳で堅信礼を受けたのですが、堅信礼の前に受けた準備学習会で、当時の母教会の牧師から、このような問題を問われました。「お祈りは人の悪口を言っても良いでしょうか、悪いでしょうか。」わたしはしばらく考えた後、「悪口を言ってはダメだと思います」と答えました。すると牧師は「そう思うでしょう?でも違うんです。神様は良いことも悪いことも全て知っています。佐藤君のことなら何でも知っているんですよ。お祈りはそんな全てを知っている神様とお話しをすることですから、きれいな姿を見せる必要はないんです。だから他の人には言えないようなことでも、神様の前だけにしか言えないようなことも言って良いのです。」と言いました。わたしにとっては目から鱗が落ちるようでした。その祈りへ意識の変化はわたしの心を強くし、その後から現在まで起きた嫌なことがあった時を乗り越えることができました。
聖書にも祈りについての記述がたくさんあります。例えばマタイによる福音書6章5節以降にはこう書かれています。「また祈る時には、偽善者のようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また、祈る場合、異邦人のように、くどくどと祈るな。彼らは言葉かずが多ければ、聞きいれられるものと思っている。だから、彼らのまねをするな。あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなた方に必要なものはご存じなのである。」また旧約聖書の詩篇も、ダビデをはじめ多くの人の祈りが書かれています。その内容は喜びと感謝のものから、自分を虐げる人への罰や破滅を願うものもあります。驚くような祈りの言葉がたくさん出てきますが、祈りというのはきれいごとを並べるのではなく、自分のありのままの言葉で良いのだということがわかります。ある牧師は祈りについて「子供が欲しいものを親にねだる時と同じようになんでも自由に言うものだ」と言っています。正直そうされると親としては「勘弁してくれ」と思うかもしれません。しかしわたしたちの父である神はどんな無理難題を祈りにのせて献げたとしても、決して見放すことなく、「勘弁してくれ」とも言わず、わたしたちを愛し救いの御手を差し伸べてくださいます。神の愛に感謝しましょう。
さて、本日の聖書箇所ローマ人への手紙10章5節から17節は「救い」について書かれています。この手紙の筆者であるパウロは「神の義」と「信仰による義」の2つを強くローマにいるキリスト共同体に伝えています。これらはよく耳にする言葉だと思いますが、どういった意味があるのでしょうか。まず「神の義」とは「神の基準で正しいとされている状態」を指し、また「信仰による義」は「信じることによって神の基準で正しいとされている状態」を指します。一言で言えば、「信仰によって神から正しいとされる状態」です。「信じる者は救われる」という言葉もこのパウロの神学から来ています。「信仰のみ」を広めたマルチン・ルターもこの「神の義」と「信仰の義」を求め、行為によって罪が赦されると教え広めていたカトリック教会に異を唱えました。今日の聖書箇所はその「神の義」と「信仰の義」の根幹となる箇所です。
モーセが書いたレビ記18章5節には「あなたがたはわたしの定めとわたしのおきてを守らなければならない。もし人が、これを行うならば、これによって生きるであろう。わたしは主である。」と書かれています。モーセが生きていた時代の神と人との関係を指している言葉です。神と人との関係はアダムとエバの時からすでに壊れていましたから、神が定めたおきてを守ることが、救いの唯一の手段であったのです。人々はそのおきてを大切に守り、神と人との関係を守り続けました。しかしいつしか人はそのさだめを自分勝手に用い、自分と違う考えを持っている者、他民族、様々な事情で礼拝を守ることができない人々を差別する道具としてしまいました。人は本当に愚かなものだと思います。そんな間違った意識の中にいる人々を正しい道へ導くため、神は愛をもって主イエスをこの世へとお遣わし下さいました。神は主イエスを十字架につけて殺してしまっても、その人々の罪を赦すために主イエスを死者の中から復活させました。これによって人々の救いは完成しました。
しかし人はその後何度もその救いを自分勝手に利用して、自分の都合の良い道具として用いました。その最たるものが免罪符です。この札を買えばあなたの罪は赦されますと言って人々からお金を集めてしまう。これに疑問を持ったルターは「信仰のみ」と言ったのです。わたしたちはこのことを耳にたこができる程聞いてきました。十字架の贖いと復活の恵み、そして信じれば救われる、その言葉を幾たびも聞いてきました。それほどまでこのことは大切であり、忘れてはならない、離れてはならないことであります。しかしわたしたちはこれまでの歩みの中で何度も離れて来たのではないでしょうか。救いがすぐそばにあるのにです。信仰による義がすぐそこにあり、救いはすでに来ているのに、そのことを疑問に思ったり、神から離れようとしてしまったりしてはいないだろうかと考えてしまいます。カルト教団のように神の名をみだりに用いて人々の不安を仰ぎ、金銭を集めています。時代が変わっても人がすることは変わらないのだと気づかされるのであります。
パウロは8節で、「言葉はあなたがたの近くにある。あなたの口にあり、心にある。」と述べています。この言葉は信仰そのものであり、信仰とは「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と書かれてあり、その言葉こそ、祈りに通ずるものだと思います。祈りとは私たちの信仰の言葉そのものであり、神にすべてを委ね、時がよくても悪くてもすべてを伝えるものです。神は祈りの言葉すべてを知っているのですから、わたしたちの信仰も知っています。
主イエスが復活した後に弟子たちの前に現れた時、弟子のひとりであるトマスはその場におらず、他の弟子たちが「主イエスと会った」と騒いでいる中「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、主イエスが復活したことを決して信じない」と言いました。その言葉通り、再び主イエスが弟子たちとトマスの前に現れ、トマスが言った通りのことをしなさいと言います。彼の言葉すべてを主イエスはご存じであったのです。トマスは主イエスが自分のことすべてご存じであることを知り、「わが主よ、わが神よ」と言ったとあります。これこそ信仰であると思います。わたしたちのことをすべてご存じである神と主イエスを「わが主よ、わが神よ」と告白する。その言葉、その信仰の他には何もいらないのです。きれいな言葉を並べることも、良いように思われるようとすることなく、ただ口と心で神の義と信仰の義を求める祈りをすることが大切です。